「喜ぶ顔が見たくて人は動く」
志賀内泰弘
岩手県のホテル安比グランドのフロント係・東芝吉宏さんから伺ったお話です。
東芝さんは、大学生の時、バイクで全国四十七都道府県を旅したといいます。
それは、貧乏な旅でした。一日の生活費がなんと1500円。ガソリン代の1200円を差し引くと、三度の食費がたったの300円也。地元のスーパーで、賞味期限切れギリギリの食パンを買って、食いつなぐ旅だったそうです。
もちろん宿には泊まれません。屋根の付いたバス停の待合所が見つかればいい方。たいていの場合、テントを張って、その中で寝袋に入ります。 仙台市に入ったときのこと。東北地方に台風が近づいていました。風雨を避けるために、広瀬川に架かる橋の下にテントを張り、一夜を過ごすことにしました。
少しずつ雨脚が強くなってきました。「こんな日は、早く寝てしまおう」と寝支度を始めました。するとそこへ、通りがかりの人がやってきて声をかけられました。
「ここは危ないから、移動した方がいいよ」
と。好意は嬉しかったけれど、テントを張ったり畳んだりするのは大変な作業です。面倒なので、
「わかりました。ありがとうございます」
とだけ答えて、眠ることにしました。ところが、しばらくすると、また違う人が、
「移動した方がいいよ」
と声をかけてきました。今度も、気の無い返事をして、テントの中に入って寝袋にもぐりこみました。
やがて辺りが暗くなり、眠りにつきかけていたところへ、懐中電灯を手にした人がやって来ました。テントの中まで入って来て、またまた、
「ここは危ないよ」
と言われました。ほっておこうと思って、いい加減な返事をしたところ、
「動くまでここを動かんぞ!」
と少し怖そうな口調で言い、ずっと東芝さんの顔に懐中電灯を当てています。眠い目をこすりながら、しぶしぶテントを畳むと、その男性の家まで連れて行かれました。
家に上がるなり、男性は急に優しい顔つきになり、温かいお茶とお菓子をご馳走してくれました。さらに、雨に濡れた衣服も乾かしてくれました。
男性いわく、
以前の大雨の時に、ちょうどテントを張っていた辺りの河川敷に青空駐車していた車が、何台も流された。その状況をまさしく目の前で見ていたそうです。
そのことが記憶に残っていた。だから、その日も家の窓から東芝さんのテントが見えていたので、「危ないなぁ」と思っていたそうです。でも、何人かの人が声をかけてくれたのでホッとしていた。
ところが、テントの主は動こうとしない。仕方なく、雨脚の強くなった中、カッパを羽織って、懐中電灯を手に警告に出掛けたというのです。
やがて避難してから一時間が経ちました。その窓から、河川が増水して、テントが張ってあった場所よりも遥かに上の位置までも猛烈な濁流が襲っていました。
テントの中で、外の状況がわからない上に、両手両足の自由の利かない寝袋です。この男性が、「わざわざ」来てくれなければ、間違いなく死んでいました。まさしく、九死に一生を得るとはこのことです。
東芝さんは、考えただけでゾッとしたと言います。今から思うと、若くて知識がなかったことを反省したとともに、旅の情けに胸が熱くなったそうです。 「お礼に、何かお返しさせてください」
とお願いすると、笑って、「他で困っている人がいたら、その人を助けてあげなさい」と言われました。
その後、ホテルマンになった東芝さんは、この時の厚意をいつも胸に刻んで働いているそうです。この時の経験が、今の人生、そしてホテルマンとしての仕事の源だといいます。
どうしたらお客様に喜んでいただけるだろうか。人の喜ぶ顔が見たい。お客様の笑顔を見たくて働く。
それが何よりの「あの日」の恩返しだと思って。
「何のために働くのか」という答の一つが、ここにありました。 ○人を喜ばせたいという思いは、最大のエネルギーになる。
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