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第1754号 ちょっといい話『日本一心を揺るがす新聞の社説 4・・・読者プレゼント』志賀内泰弘

ベストセラーのシリーズ「日本一心を揺るがす新聞の社説」の待望の第4巻が発売になりました。「みやざき中央新聞」の水谷もりひと編集長の社説をまとめてものです。 新聞の社説というと、堅くて小難しいイメージがありますが、タイトルの通り「心を揺るがす」内容ばかりです。ちなみに、このタイトルは志賀内が提案させていだいたものが、そっくり採用されたものです。 第4巻から、志賀内がお気に入りのお話を一つ紹介させていただきます。

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「かつひろくん、あんどうせんせいだよ」

一枚の写真がある。坊主頭の少年が満面の笑顔でブランコに乗っている。左右の手はしっかりとブランコの綱を握っている。昭和60年頃に撮られたものらしい。少年の名前は勝弘君といった。教育哲学者・林竹二著作集8『運命としての学校』に、その写真はあった。勝弘君は、当時福島県立須賀川養護学校の児童だった。肢体不自由や病弱のために普通学校に通えない子どもたちが学ぶ学校だが、勝弘君はその学校にすら通えない重症心身障害児だった。

養護学校に隣接した国立診療所内にある「わかくさ病棟」に彼はいた。養護学校「重心訪問部」の先生たちは、毎日その病棟に通い、子どもたちに「教育」を施すのだ。安藤哲夫先生が須賀川養護学校に赴任してきて、最初に「わかくさ病棟」を訪れたとき、勝弘君の姿が目に飛び込んできた。毛布にくるまれてベッドの上に置かれていた。「人間とは思えなかった」と安藤先生は当時を振り返る。

在院8年、年齢は9歳3か月と聞かされた。勝弘君は重い脳性まひの子どもだった。また、両眼球形成不全症で片方の目には瞳孔がなかった。さらに高度の難聴で、どんな音にも反応せず、言葉を発することもできない。そして歩行不能という五重の重い障がいを一身に背負って生きていた。「自分から動くことはなく、親や職員にも何の反応も示さず、本能的に食べて排泄し、ただ生きているだけです」と病棟の指導員から説明を受けた。

「教師として何ができるというのか」。安藤先生は、勝弘君の触れば折れそうな細い手を握って自分の頬に当て、自分の手を勝弘君の頬に当てた。そして覆いかぶさるようにして勝弘君の耳元に口を近づけ、「かつひろくん、あんどうせんせいだよ」とあいさつした。「耳は全く聞こえていません」と医者から聞いていたが、毎日10分、20分の時間を割いて、安藤先生は勝弘君の部屋を訪れ、声を掛け続けた。その日課は1日も欠かすことはなかった。

1か月、2か月、何の反応もなかった。3か月目になろうとする頃、いつものように「かつひろくん、あんどうせんせいだよ」と言うと、勝弘君がかすかに笑った。蒼白く、何の表情もなかった顔が、ほんの一瞬、動いた。唇と頬が確かに動いたのだ。 それまで自ら動くことをしなかった勝弘君だったが、安藤先生が軽く介助をすると寝返りが打てるようになった。といっても、「軽く介助すれば寝返りが打てる」ようになるまで2年4か月の歳月を要した。

冒頭に紹介したブランコの写真は、勝弘君への「教育」が始まって6年11か月目に撮影されたものだそうだ。もう一枚、写真がある。勝弘君はいつもの寝間着姿ではなく、ちょっとおしゃれな上下のジャージに着替え、胸にリボンの徽章を付けている。寝たきりだったのに、しっかりと座っている。そして両手で卒業証書の入った紙筒を握っている。ブランコの写真から1か月後、彼は小学部を卒業したのだ。

林さんは言う。「子どもはみんなかけがえのない宝をどこかにしまいこんでいる。むしろ隠している。教師の仕事は、あらゆる手を尽くしてそれを探し出し、掘り起こすことなのだ」と。かつて林さんは「教育とは、未成熟な生命の心身にわたる成長、すなわち自立を助ける仕事だ」と言っていたが、自立が望めない勝弘君と、彼を懸命に介助する安藤先生の「教育」を知って、「不用意な発言だった」と自省している。

「声を掛ける」、ただそれだけ。声を掛けても何の反応もない。それでもいい。それが「教育」の基本であり、原点であることを、安藤先生も、教育哲学者の林さんも勝弘君から学んだ。林さんは、安藤先生たち「重心訪問部」の先生たちのことをこう語っている。「彼らほど、たくさんの大事なことを子どもから学ばせてもらった幸せな教師はあまりいないのではないだろうか」と。

○参考文献『学びつづける教師に』(佐久間勝彦/著・一茎書房)

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